ざかしの仕事以外の時間で夢をかなえるブログ

LINEスナック店長のざかしは、普通に働いていて平日仕事の土日休み。結婚していて時間的自由に少し制限ありのどこにでもいる普通の28歳男です。でもそんな普通の男だからこそ仕事終わりのアフター6で夢を叶えてみせたいのです。時間がないを言い訳にしない!やってやります!

28歳転職7回~不安定から見つけた大切なもの~

こんにちは。

LINEスナック店長やってます

ざかしです。

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僕は、現在、普通に社会人として

働いているにも関わらず、
"LINEスナック店長"という
不思議な肩書きを持っています。

 

なぜ、こんな意味のわからない男が
誕生したのか、
すべてがわかるように、
僕の生い立ちをガッツリ話させてもらいます!

 

 

-LINEスナック店長ざかしの経歴-

 

僕は、群馬県の都会部分で生まれました。
(どこやねんw)

「群馬に都会なんてあるわけねーだろ!」
みたいな突っ込みが飛んできそうですが、
群馬には高崎という
"まあまあ都会"なところがあるんです。

関東圏で言ったら、
埼玉の大宮的な。

関西で言ったら…
関西人ちゃうからわからん!←何故か関西弁w

 

群馬県で一番栄えてる高崎市で生まれて、
高校卒業までその高崎に住んでいました。

 

◆人見知りの幼少時代


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僕は、父親の会社の社宅に住んでいました。
10世帯が住む社宅でした。
僕は、その社宅には、
生まれたときから、
小学校5年生まで住んでいて、
その社宅に住んでる子どもは、
同い年くらいの子たちが7人くらいいて
毎日一緒に遊んでる家族のような存在でした。

 

僕は、幼稚園からサッカーを始めて、
学校から帰ると、
その社宅に住んでる友だちと
みんなでサッカーをしてよく遊んでいました。

 

駐車場がサッカーグランド!
今思うと、、
ガンガン車のボディーにボールぶつけたり、
サイドミラー壊したり…
あそこに住んでいた大人たちは寛容だったなぁ。
(いや、何回かシバかれたことあったぞw)

 

車に傷をつけちゃったり、
家の窓ガラスを何枚も割っちゃったり、
そのたびに母親が
僕の頭をガッと押さえて、
「すいませんでした!」
と一緒に謝りに行ってくれたなぁ。

 

濃いエピソードとしては、
小3くらいのときに、
部屋の窓から、外に向かってオシッコしたら、
母親に本気で怒られて、
夜まで嗚咽するほど、
泣いた記憶が(どこが濃いねんw)


そんなクソガキでした。

でも、これは学校外の話です。

僕は、学校ではものすごい静かな男でした。

 

でも家に帰ると、
めちゃくちゃうるさい、
二重人格の子どもでしたw

 

なんで二重人格だったかというと、
僕は子どもの頃、
極度の人見知りで、学校にいる時は、
クラスに馴染めなかったりしてたんてす。

 

でも家に帰って社宅の友だちは、
生まれたときから知ってる仲だし、
中でも僕が一番上の年齢の世代だったから、

まあ、いわば、"お山の大将"ですよね。(笑)

 

学校で、先生やクラスの友だちの前では

自分を隠していたので…

 

家での生活は、居心地が良かったんです。

家では僕がいうことはたいがい聞いてくれます。

でも学校はそうはいかなかったんですね。

 

小学生の時に最大の大恥をかいたんですが、
それは、僕が小学生1年生の時の話。

当時クラスの女の子と話をしたりするのも恥ずかしいし、
もちろん好きな人はいたけど、

話しかけるなんて無理でした。

 

そんな感じでいつものように学校では、
もの“すごくおとなしい仮面”

をつけて生活してて、
家に帰ったとたんにその仮面を外して、
「ひゃっほーーい!」って遊んでました。

その日は、

調子乗って、お尻を出して踊っていましたw

学校じゃありえないです。
で、クレヨンしんちゃん

ケツだけ星人の真似をして、

お尻を出して、
「ケツだけ星人ぶりぶりー!!」
と踊っているところを、
下校しているクラスメートの女の子に見られたんです。

 

もうあの時は、小学生1年生ながら、
死にたいって思いましたよw

 

で、次の日学校で、
「ざかし君、昨日さ…」
て言われた瞬間、もう恥ずかしすぎて、

その場から立ち去った記憶があります。

 

「お尻出してたね」

 

って言われる現実を受け入れたくなかったのでwww

まあ、今となればいい思い出話です。



学校になじめない理由としてもうひとつ、

当時、

クラスメートにいじめっ子がふたりいました。
たかのり君とりゅーじ君。

 

このふたりがとにかく暴れん坊で暴力的で、
マジ怖くて、何回かリコーダーで頭を殴られたことがあります。


僕なんか、体もキャシャだったし、
人見知りだし、うじうじするし、
すぐ泣くし、"弱い男"の代名詞が、
僕、的な(笑)


学校には僕なんかが目立てる場所はなかったんです。

あ、ごめんなさい!あった!(笑)

僕は、足が速くてサッカーも選抜選手に選ばれるくらい、
運動神経が抜群にあったのです。


運動会の徒競走は、
1年から6年まで全部1位。
持久走は全部10位以内で、
小6のときは1位でした。
全校生徒1500人おを超える
モンスター学校で1位でした!ドヤ顔

 

ま、特技と言ったらそれくらいですかね。
運動神経がある、だけです。

 

サッカーも周りの友だちと比べたらあきらかに僕が一番うまくて、

小学校6年生の時にはキャプテンを任されました。

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小学校の6年間の苦楽を共にした、

だい君、あきら君、ゆうき君、りょう君、じゅんや君という仲間がいますが、

本当にこの5人と一緒にサッカーできて楽しかった。

休日は毎週一緒に遊んだりしました。

 

でも中学に入って、僕はこの5人に最悪なことをしてしまうのです…

 

 

◆影と栄光の中学時代

 

僕は小学生の頃は小学校の少年団のサッカーチームに所属していましたが、

中学生になって、部活には入らないで

地元のクラブチームに入りました。

 

なぜ部活じゃなくてクラブチームに入ったかと言いますと、

 

「部活はお遊び。やってられない。本気でサッカーがうまくなるにはクラブチーム」

 

という偏見を持っていたからです。

僕は、小学校で6年間一緒にやってきた仲間である、

だい君、あきら君、ゆうき君、りょう君、じゅんや君…

この5人に対して、

 

「みんな部活入るの?俺は部活なんて入んねぇ。俺はクラブチーム入るから!」

 

と嫌な言葉を吐き捨てて、クラブチームに入りました。

 

学校の授業が終わると

さきほどの5人は部活に行きます。

 

僕は、家に帰って、バスに乗ってクラブチームの練習に行ってました。

 

僕は、5人のことを下に見ていたのです。

 

「部活なんて甘い。弱い、うまくならない」

 

そうに思ってました。

そんな僕の嫌な態度を感じ取ったのか、

小学生時代仲良かったその5人とは心の距離がどんどん広がっていって、

学校でもまったく話もしないような関係になっていきました。

 

僕が悪いのですが…。

僕は孤立してしまったのです。

 

そんなとき、最悪な出来事が起きました。

 

僕は中学1年の秋に、

幼稚園から始めた大好きなサッカーを

辞めざるを得ない大けがをしてしまいました。

 

 

腰椎分離症という怪我です。

背骨が曲がってしまうという怪我をしてしまって、

ある朝、目覚めたらひとりで起き上がることができないくらいの激痛に襲われました。

 

「母さん!かあさーん!!」

 

と母親を呼んで手を貸してもらって起き上がりました。

お医者さんに行くと、

 

医者「もう今後、サッカーのような激しいスポーツはできませんね」

 

僕「え…?」

 

医者「激しい運動は控えてください」

 

僕「リハビリとかしてもダメなんですか?」

 

医者「治すには手術が必要ですが今手術すると生活にも大きく支障が出てしまいますので」

 

僕は、当時中学1年生のクソガキ。

お医者さんは神様のような存在だったから、

お医者さんにそうに言われたら

 

「“絶対”なんだ…」

「もうダメだ終わった」

 

と思ってしまったんです。

 

僕はずっと将来の夢はプロのサッカー選手!

と言い続けてきましたが、

中学1年生という若さでその夢が途絶えてしまって

とにかくショックでした。

 

もちろんクラブチームも辞めました。

一切の運動を制限された僕はぶくぶく太っていったし、

どんどんどんどんふさぎ込んだ性格になって、

家では誰ともしゃべらなくなりました。

 

歩くのも辛くて、

学校は親に送り迎えしてもらって、

腰の痛みが激しい時は、

全校集会などは体育座りができないから、

一番後ろで座布団を敷いて正座して校長先生や先生の話を聞いていました。

 

学校が終わり、3階の教室で親の迎えを待っているとき、

窓からグランドを見ると、

かつて小学校6年間を共にした仲間たちが

楽しそうに、一生懸命サッカーボールを追いかけていました。

 

その光景を見て、本気で泣きました。

 

仲間もいなくなって、

サッカーしか取り柄がないのに

サッカーもできなくなって、

もう自分には存在価値なんてないと本気で思いました。

 

「もうなにもかも終わった」

 

と思いました。

 

そんな暗くつらい日々が続いて、

家でも一言もしゃべらないでぼーっとしていると、

見かねた母親が僕にこう言いました。

 

母「ねえ、サッカーやりたいんでしょ?」

 

僕「は?」

 

母「だから、本当はサッカーやりたいんでしょう?」

 

「いや、やりたいっていうか、できねーんだよ!!」

 

僕は、

サッカーがやりたくても出来ない怪我をしている、

身体もうまく動かせないほどの重症。

 

そんな状況は、

母親もわかってるはずなのに、

なんでこの人はこんなこと聞いてくるんだろう。

と母親のことを本気でムカつきました。

 

 

でも、母親はこうに続けました。

  

母「あのね、辛いのはわかるよ。でもね、お母さんは、洋輝がサッカーボール追いかけてる姿が大好きなんだよ。」

 

 

僕は、その時、

座布団に顔をうずめて、

鼻水と涙でぐちゃぐちゃになりました。

 

僕「やりたいよ。そんなの当たり前じゃん」

 

母「だったら頑張ってみたら」

 

 

そして僕はお医者さんに何言われようが、

自分で自分なりにリハビリをして、

 

 

「またサッカーができるまで復帰してみせる。」

と決意したんです。

 

とりあえず、腰回りの筋肉を強化しました。

でも、当時僕の家にはインターネットなどなくて

別に何を調べたわけでもなく、

ただ、自分なりに考えた結果、

“筋トレ”をしたんです。

(なので腰椎分離症で悩んでいる人、参考にはならないかもしれません)

 

とにかく毎日腹筋と背筋をしました。

暇さえあれば、してました。

 

すると、だんだんと腰の痛みがなくなってきたんです。

家の庭で少しボール蹴ってみようかなと思って、

蹴ってみたら…

 

ズキズキズキ!!!

 

と激痛が走った時は、

もう本当に心が折れそうでした。

 

お先真っ暗とはこのこと。

頑張っても頑張ってもダメな状況に、

中学1年生のクソガキのメンタルは

ポキポキ折れては戻って

折れては戻っての連続でした。

 

でも僕は負けませんでした。

それでもリハビリを続けました。

 

すると、腰の痛みがまったくなくなって、

普通に歩いたり軽く走れるようになりました。

 

「サッカーできる。これなら大丈夫。」

 

と確信できるところまで復活して、

僕は再び庭でサッカーボールを蹴ってみました。

 

「全然痛くねぇ…!」

 

僕は、サッカーができる身体にまで復活したんです!

ですが、ここでひとつ問題が…

 

どこでサッカーをやろう…

高い月謝払わないといけないクラブチームにはもう戻れない。

親にも迷惑かけてるし。

 

かと言って部活には“絶対に入れない。”

なぜなら、あの5人が僕なんかを受け入れてくれないはずだから。

 

親と担任の先生に相談してみた。

 

僕「部活に入りたいけど、僕のことみんな嫌いだと思う。」

 

先生「なんで?」

 

僕は事情を説明しました。

 

先生「そうか。でも、謝ればみんな入部を認めてくれるんじゃないか?」

 

僕「だってもう約1年も話もしてないし、僕を避けてるんですよ」

 

先生「それはお前が悪いことをしたから仕方がない。でも謝って誠意を見せれば大丈夫だ」

 

僕「…。」

 

この時、先生は僕の肩を叩いて、

 

「がんばれよ!」と言ってくれました。

 

熱い担任の先生でした。

 

僕は、重い足を引きずって、

かつての仲間たちのもとへ行って、

 

「部活に入れてほしい」

 

とお願いしに行くことにしました。

 

でも、約1年くらい口もきいていなかったし、

正直、なんて話しかけたらいいのかもわかんないし、

気まずいし…本当に憂うつでした。

 

でも勇気を出して、みんなのもとへいきました。

 

 

あきら君「あ…」

 

僕「…。」

 

だい君「どうしたん?」

 

僕「いや…」

 

みんな「…?」

 

僕「あのさ、部活…」

 

ゆうき君「部活?」

 

僕「ん…。…。」

 

みんな「…?」

 

僕「あのさ、部活に入りたいんだよね…。」

 

みんな「え。」

 

「洋輝!マジ!洋輝入ってくれたら強くなわ!!!え、今日から!?まじ!??」

 

僕「え、いいの?…」

 

「いいよ!大歓迎だわ!!!」

 

僕「だって俺、クラブチーム入るときに、みんなに嫌なこと言ったりしたじゃん。ごめん」

 

「嫌なこと?なんだっけ?」

 

 

僕は、この時気づいた。

 

みんなは僕のこと嫌ってたわけでもなく、

避けていたわけでもなく

僕が勝手に距離をとって避けていたんだって。

 

もうね、あの5人がいなかったら、

今の僕は本当にいないと思ってます。

 

本当に救われました。

 

 

しかも、中学2年生の終わり頃には、

みんなの推薦で

僕はキャプテンになりました。

 

あれだけひどいこと言ったり

悪い態度とったりしていたのに

 

「キャプテンは洋輝しかいねーわ」

 

と言って、部員全員が僕を指名してくれたんです。

 

 

僕は、部活で、サッカーだけでなく、

友情とか挫折を乗り越えていく大切さとか

なんかクラブチームでは教われない

めっちゃ大切なものを学べました。

 

 

 

 

 

◆地獄の高校時代

 

 

さて、そんな僕も高校生になりました。
地獄の高校時代…
まさに地獄でした。

 

受験はしてなくて
サッカー推薦で公立高校に進学しました。
そこで待っていたのは

華やかな高校生ライフなんてのは全く皆無!

地獄…地獄・・・・・

地獄!!笑

 

今ならアウトであろう、体罰の嵐!
まあ、僕は今では

体罰とは思ってないですけど。
時には手を出されて痛い思いしてもいいんじゃね?
と今では思います。

 

でも当時は先生のことが大嫌いで、
ぶっ○したかったくらいムカつきましたが…(笑)

 

だって、体育教官室に入るとき、
ノックの回数が多いって理由で、
胸ぐら掴まれてロッカーにガンガンやられて、
その場で腕立て伏せやらされて、
しまいには腕立てしてる僕の顔面を
蹴り飛ばしてきたんですよ?

 

顔面青あざです。

 

これがこの高校に入ってからの
初めての洗練でした。笑

 

部活はとにかく超厳しかったです。
練習内容はもちろん、
人間関係や挨拶など…
精神が病むくらい苦しかったです。

 

だから高1の時は、

学校を休みがちになりました。
3週間ほど保健室登校していたこともありました。

 

僕は、学校に行くのが嫌で、
朝、「行ってきます。」と言ったら、
学校に向かわず、
地元の高崎駅に向かいます。

 

で、駅に着いたら、
学校に電話して、

「1年B組のざかしです。今日は体調不良なので休みます」

と欠席の連絡を入れます。

そして、僕は、電車に乗って東京や、静岡や、栃木など…
遠くに行って現実逃避をしていました。

 

僕の地元から東京までは当時、
電車で3時間近くかかりました。
遠くに行けば行くほど、
心は癒されて、
お台場とかに行ったりして、

 

「みんなが学校に行っているときに僕はこんなところ(東京)にいる」

 

と、なんか少し大人になったような気分で、
何とも言えない気持ちになって、
すごく心地よかった。

 

今でも、あの時、

お台場の自由の女神の前で見た、

夕焼けは忘れない。

夕方、夜に近づくに連れて、

 

「なにやってんだろ、俺。」

 

と、どんどん罪悪感や虚無感に襲われました。
群馬に帰るときの帰りの電車は、

もう絶望感しかなかったです。

 

厳しい学校だから、

どんな理由でも学校を休むと怒られるんです。

 

「這いつくばってでも来い!!!!」

 

と怒鳴られるんです。
たとえ、本当に体調が悪くて熱があって休んでも、

 

「学校に来て治せ!!」

 

とマジで怒られます。

 

そんな現実が嫌になり、
僕は高校1年生の時、
逃げて逃げて逃げまくった結果、
20回も欠席してしまいました。笑

 

でも、僕が、学校に行くという現実から逃げて、
遠くにひとりで旅をして、
そこで見た景色とか人間模様とかは、
決して学校では教わることができないものでした。


だから、休んで先生に責められたり、
友だちに「メンタル弱すぎ」とバカにされても、
僕は高校時代のあの時の経験は、
自信を持って「よかった」と言えます。

これもいい思い出です。

 

それでも高2になり後輩ができると、

僕は真面目に部活にも学校にも行くようになり、

サッカーに打ち込みました。

 

何回も怪我をしたし

何回も怒られたし

何回も泣いたし

何回もこぶしで地面殴ったし…

 

挫折も何度もあった。

けど、なんとかやってこれました。

 

高校3年生の高校選手権、

県ベスト4をかけた戦い。

負けたら引退。

 

 

そんな大事な試合の前の日の夜の出来事です。

 

 

僕「あのさ、みんな(小学校、中学校時代のサッカー部の友だち)に明日の試合見に来てほしいんだよね」

 

母「どうしたん?」

 

僕「いや、なんていうか、怪我でサッカーできなくなったじゃん?中学の時。その時、みんなが助けてくれたから、俺、ここまでこれたんよ。でも直接そんなこと言うの恥ずかしいから、母さん、みんなのお母さんに連絡してよ。明日の試合見に来てって。」

 

母「わかったよ」

 

 

そして試合当日、あの5人が応援にきてくれたんです。

僕はスタメンで試合に出ました。

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試合中に、その5人の姿が確認できて、

めちゃくちゃううれしかったのを覚えています。

 

残念ながら、試合には負けちゃったけど、

全力プレーで負けて、

属の高校サッカーの締めくくりを、

大好きな5人が見に来てくれて

本当にうれしかった。

 

感謝しかないです。

 

 

高校時代も熱かったな~~!

 

 

 

◆大学進学~新潟で独り暮らし~

 

 

僕は、高校を卒業して

すぐに新潟で独り暮らしを始めました。

 

大学はサッカーの強豪大学で、

これもまたサッカー推薦で行きました。

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はじめての独り暮らし。

とにかく不安しかなくて、

寂しくて、ずっとケータイいじって、

地元の友だちとメールしていたのを覚えています。

 

そんなとき、高校のクラスメイトの山口くんが

 

「これ聴いて頑張って!」

 

と着メロを送ってくれました。

(着メロとか懐かしいでしょ?w)

 

 

ナイス橋本というアーティストの

「キンミライ」という曲です。

 

歌詞:

この改札抜けたらそこはちょっぴりだけ近未来。

ドラマみたいにクールじゃないけど

確かに歩き出す音がする。

笑ってつられて笑って揺られてほら

今はじまる道の先に

僕らが選んだ旅の続き

 

 

 

この歌詞に励まされました。

僕は群馬を出るとき、

新幹線の改札前で、

高校時代の友だちに見送られて群馬を出ました。

 

本当に仲間に恵まれているなあ…


高校時代もサッカーでは

そこそこ上のレベルでやっていて
新潟県の強豪大学とは言え、
なんとかやっていけるだろうと思っていました。

 

がしかし、甘かったです。
周りの人たちがめちゃくちゃサッカーがうまくて、

 

僕は下のチームに所属していました。
今まで自分の上なんかそうそういなかったのに、

大学に入ったら

むしろ自分の上しかいないような環境で、

僕は挫折しました。

嫌になって練習に行かなくなりました。

 

サッカーでも挫折して、
慣れない新潟での独り暮らし
寂しさ、苦しさ…
いろいろなことが
いろいろ重なって、

 

僕は、サッカー部をやめて、
大学もやめたい!
と思うようになってしまいました。

 

で、僕はここでも逃げ出します。
僕は、新潟のアパートの荷物をすべてまとめて、
当時乗っていた、軽自

動車にその荷物をぶちこんで

 

群馬に帰りました。
いや、群馬に逃げました。

 

群馬に行けば大好きな友だちがいる…
居心地のいい、あのふるさとがある…
そんな想いで帰ったんですが、

 

実家には帰ることができませんでした。
なぜなら、

親には多額の大学の授業料を払わせて、
僕のことを信じて新潟に送り出してくれたのに。


辛くて逃げ出してきた姿なんて、
見せることができなかったのです。

 

だから僕は、

友だちの家でシャワーを浴びさせてもらったり

宿泊させてもらったり、

時には公園で生活したりしていました。

 

公園の駐車場に車を泊めて寝ることは多々ありました。

そんな生活をしているある日の朝、

いつものように公園で寝ていると、

子供たちが数人サッカーボールを持って

ワーワー言いながらサッカーをし始めました。

 

僕は、その子供たちに

 

「お兄ちゃんも一緒にサッカーしていい?」

 

と言って一緒にボールを蹴っていました。

 

すると、

その子供たちのサッカーのチームのコーチ(女性)がやってきました。

 

女性「こんにちは。」

 

僕「あ、こんにちは。すいません楽しそうだから思わず一緒に…」

 

女性「そうなんだー!サッカーしてるの?」

 

僕「あ、はい。」

 

僕は、こういう事情で新潟から逃げ出してきてることを素直に話しました。

 

女性「私たち毎週日曜日に男女混合のミックスのチームでサッカーしてるんだけど、くる?」

 

僕「え、いいんですか?」

 

女性「うん、ぜひ!」

 

この女性の名前は“上原さん”

 

 

こうして、僕は毎週末、

地元の中学校を借りて

サッカーの練習をしている

上原さんのチームに加入することになりました。

 

28歳になった今も

毎週土曜か日曜にそのチームの練習に行っています!

 

 

でも、僕は新潟に帰らなきゃいけない。

 

 

約一か月くらいこんな生活をしていて、
お金が底を尽きそうになった時に

 

「こんなんじゃダメだ…」

 

と思って、

僕は無理やり気合いを入れるために、
1000円カットに行って、頭を丸坊主にしました。

 

「坊主にすればやる気が出るだろう」

 

という安易な考えでした。
そして僕は、

高速に乗り、群馬から新潟に帰りました。
新潟県に入って、アパートに近づくにつれて、

 

動機やめまいや吐き気などがしました。
もう、僕は新潟という土地が、

大嫌いになっていたのです。

 

生理的に受け付けないというか、

身体が反応しちゃって、

もう身も心もボロボロになっていました。

 

大学や、大学の友だちから電話が来て、

その着信音を聞くと、

胸がドクドクと音を立てて鼓動し、

吐き気がする。

 

病院に行ったら、

着信音恐怖症という病気になっていることが判明。
あと、対人恐怖症という病気にもなっていました。

 

もう、大学は、本気で辞めようと思いました。
限界がきていたので、

泣きながら親に電話しました。


そしたら、とりあえず休学の手続きをして、
新潟の大学に籍を残したまま群馬に帰るという手段をとり、

群馬に帰りました。

 

僕は、新潟から逃げて、

群馬でアルバイトをしながら
なんとなく生活をしていました。

 

今までサッカーばかりの19年だったから、
はじめてのアルバイトは新鮮でした。

 

クロネコヤマトの工場内で夜中働きました。

「人間関係がめんどくさくなさそうだから」と

いう理由で工場を選びました。

 

そこにいるおじさんやおばさんたちに、
こういう事情でバイトしてます、と話すと

 

「大学は辞めない方がいいぞ」

 

とか

 

「勉強や部活をしにいくのではなく、友だちを作りにいくんだよ」

 

とか、いろいろな話を聞きました。

薄暗い工場だったけど

人の温かさはありました。

 

僕はバイト場と

週末の上原さんのサッカーのチームでの

温かい人たちから刺激や勇気をもらい、
僕は、半年間大学を休んだ結果、

「もう一度がんばってみようかな」

 

と復学することを決意しました。

僕は大学に戻ったんです。

 

一年留年という形になりましたが。

 

でも、復学して最初の1週間は学校にいけませんでした。
大学の駐車場に行くと動機が激しくなって、

 

「やっぱりいけない…」

 

とアパートに帰ってしまう日々が続きました。

僕の対人恐怖症は治っていなかったんです。

 

だから、僕はマスクをしてニット帽をかぶって、
大学の友だちにバレないように校舎内に入り、

教室の端っこの方で、

授業を受けていました。

 

休み時間はトイレの個室にこもり、
誰にも会わないようにうまく大学生活を過ごしていました。

 

でも、時間っていうのは、すごいですね。
解決してくれるんです。

 

 

僕はだんだんと心が落ち着いてきて、
普通に授業を受けることができるようになり、
友だちもできて、
大学生活が少しだけ楽しくなってきたんです、

本当に今ではいい思い出です。

 

対人恐怖症もなくなって、

着信音を聞いてもなんとも思わなくなったんです。

 

 

僕は、大学卒業するとき、
新潟をさよならするとき、
涙が止まりませんでした。
新潟が大好きになっていたのです。

辛いときによく言ってた関谷浜という海、

友だちとよく行った焼肉屋さん

美容院のおばちゃん

おいしい海鮮丼…

冬のうざったい大雪でさえ大好きになっていました。

 

こうして、僕の大学生活が幕を閉じました。

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◆社会人生活スタート

 

僕は、大学を卒業して、

栃木県の宇都宮にある子供たちにサッカーを教える、

サッカースクールに就職しました。

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同期と先輩と6人で一軒家のシェアハウスに住みました。
仕事は、朝6時に起きて、夜中の1時に終わって、
先輩から風呂と洗濯をするので、
寝るのは、3時過ぎ。
毎日睡眠時間2時間足らずでした。
しかも、日曜日だけなんです休みが。

 

ここも地獄のような日々でした。

(地獄多くない?笑)

 

しかも僕の直属の上司が、
よくわからないチャラい人で、
新入社員歓迎会を会社の事務所でしたんです。
みんなお酒を飲んだので、

 

「あぁ、今日は事務所で寝るのかぁ。キツ…」

 

と思っていたら、

 

「お前ら、今日は酒飲んでるから、帰りの運転気をつけろよ!」

 

と衝撃的なことを言ったのです。
僕はこの上司に不信感を抱きました。

 

 

「こんな上司の元で仕事したくない」

 

 

と思うようになってしまって、

仕事中、その上司に怒られるたびに、

 

「なんでお前なんかに怒られなきゃいけないんだよ」
「怒る権利ないだろ」

 

と心の中で思うようになりました。

そして、ある日、僕はその上司に、

 

「なんでこんなこともできねーんだよ!」

 

と仕事のことで怒鳴られたときに、

僕はブチっとキレてしまいました。

 

「僕、飲酒運転を容認するような●●さんの下で、仕事したくないです。」

 

上司に噛みついてしまったのです。

 

上司「俺もお前みたいな奴と仕事したくないわ。じゃあな」

 

そう言われて、
僕は社会人初めての職場を、

1か月足らずでクビになりました。

僕は、シェアハウスの荷物をまとめて群馬に帰りました。

同期とはもう疎遠です。

 


正直、無職になり、ものすごく焦りました。

 

だから、毎日地元のハローワークに通い詰めました。

 

「どんな仕事でもいいから、紹介してください!!」

 

紹介担当のおばさんに毎日毎日言い続けました。

すると、
知的障がい者支援の仕事を紹介されました。
経験不問だったのでハードルが低いなと思い、

ソッコーで履歴書を送って、

面接をして、見事合格しました。

 

クビになってから、2週間で転職成功!

 

しかし、この知的障がい者施設での仕事が想像を絶するほど

きつかったのです。

 

◆知的障がい者施設に就職

 


「今日からお世話になる、ざかしです!よろしくお願いします」
元気よく挨拶しました。


そして、知的障がい者の方の支援員として、

働き始めたのです。

 

知的障がい者施設に転職
僕は、障がい者の方の内職の手伝いをしたり、
生活支援(トイレ介助、散歩、入浴介助、外出など)業務をしました。

 

慣れない仕事だったので、
僕はここでも精神が病みました。
本当にメンタルの弱い男です。

 

でも、転職したばかりだから、
格好つかないしすぐ辞めるわけにもいかず、
なんとなく仕事を続けていました。

 

女上司の気難しい性格と、
雰囲気の悪い女社会の職場雰囲気に
必死で我慢して耐えてました。

 

しかし2年経った時、またまた僕に

限界がきてしまいました。

 

障がい者の方にフォークで殺されかけたり、
障がい者の方同士で喧嘩が勃発したときに、

僕は障がい者の方の腕をとって

 

「喧嘩はやめましょう!」

 

と仲裁をしました。

すると、

 

理事長「てめぇの仲裁の仕方が悪い!」

 

と怒られました。
それだけならいいのだけど、

 

「どのように仲裁したらいいですか?アドバイスください」

 

と言ったら

 

「そんなこと自分で考えられないようならやめちまえ!」

 

と言われました。
だから次喧嘩したときは、

言葉だけで仲裁しようと思い、

 

食堂で喧嘩勃発して、

利用者さんが使用者さんの耳を引っ張り、

耳から大量の血が出ていました。

 

僕は、

 

「どんなことがあっても手を出すのはダメですよ。絶対にダメ!」

 

と言葉だけで仲裁しました。

 

すると理事長に

 

「お前の言い方、なんなんだ。実際に怪我してるじゃねぇか。なんで体張ってとめねーんだよ!」

 

と怒られました。

後から聞いた話によると、理事長は男の職員が大嫌いだそうです。

僕は、もうダメでした。

 

 

上司に「退職します」と伝えて、

その職場を退職しました。
2度目の退職。

 

 

僕の履歴書にはどんどん傷がついていく。
しかも、僕は、この時点で、

人生最大の失敗をおかします。

 

 

 

◆借金280万円を背負う

 

僕はもう、働くことへの意欲が薄れていました。

自分の社会適応能力の低さに絶望していたからです。

 

「楽して稼ぎたい。働かないでお金を稼ぎたい」

 

という考えが強くなり、Twitterで、
“ネットビジネス”をしている人と、
コンタクトをとって、
そういう人に会ったりして、
うまくて甘い話に何回か乗ってしまいました。

 

普通に初期費用30万とか払ったし、
8万、10万…
借金して余裕で支払ってました。

 

初期投資すれば倍に増える…
とかその程度の誘惑で僕は何回も借金をして、
その借金を返そうとして借金が280万円にまで
膨れ上がってしまったのです。

 

払えなくなってしまって、

怖い人から電話がきたりもしました。

当時付き合ってた(今の奥さん)彼女と山梨の旅行中に、

 

僕の携帯電話が鳴って出ると

 

 

「ざかしさん?あんたなめてんの?払うの?払わないの?」

 

 

そんな追い込みの電話が何回もかかってきました。

(旅行も借金して行ってました。笑)

 

 

毎月の支払のためにも、
僕は普通にコツコツ働こうと思い、
3度目の転職をして職に就きました。

 

 

◆3度目の転職トヨタに就職


トヨタの車のクリーニングの部署に就職しました。
ていうより、3か月契約の派遣ですが。


ここでは、

派遣社員への風当たりの強さを体感しました。
僕が、何しても
「派遣だからって甘えんなよ」
とか
「これだから派遣は…」
とか…

 

あとは普通に「バカ!」とかも言われました。
僕は、車への興味がまったくない
“乗れればいいだろ”と思ってるような男なので
車のクリーニングの作業が退屈でした。

 

仕事へのやる気もないので、
いろいろ言われるのは仕方がないことだけど。

 

でも悔しいから、仕事ができないかわりに、

 

「朝のラジオ体操や挨拶は全力でやろう!」

 

と決めて、毎日それを実行していました。

 

そしたら、僕に「バカ!」

と罵ってきた次長が、

 

「ざかしの挨拶は事務所ですげー評判いいぞ!」

 

とほめてきたんです。
あれはうれしかったなあ。

 

そして僕はそのトヨタでの職場では、

割とみんなから信用されるようになってきて、

最後僕が3か月の契約が切れるときに、

 

みんなで僕のためにお別れ会をしてくれたんです。

 

「ざかし、次の仕事は決まってるのか?」
「はい、決まってますので、ご心配なく!」

 

そうなんです、

僕はこのトヨタで働きながら就職活動をしていたのです。

 

ちなみに、4度目の転職先は、

住宅の塗装の飛び込み営業でした。

 

これは、ハローワークの外で変なおじさんに

 

「兄ちゃん根性ありそうな顔しとるな。営業やらんか?」

 

って声をかけられたんです。

(関西人だったのかな?)

 

僕は、人見知りの幼少期を過ごし、
大学時代には対人恐怖症という病気になったし、
社会人になってからもメンタルがそんなに強くないし、
営業職は一番避けていたんです。

 

しかも営業職の中でも
飛び込み営業なんて、

絶対に無理だと思っていたし避けていました。
でも、この時の僕は、

もう今までいろいろな経験をしてきたし、

だんだんとチャレンジ精神が芽生えていたし、

なにより営業でバンバン契約とって稼いで早く借金を完済して

付き合っている彼女と結婚をしたかったのです。

 

そんな追い込まれている状況だと

人間なんでもやれちゃうんですね、

そのおじさんに

 

「お願いします!」

 

おじさん「ああ、ええよ。でも一度顔合わせに面接しにきてな」

 

と言われて名刺をいただいて指定の日時に面接に行き、
その場で採用されたのです。

 

 

◆4度目の転職

住宅外壁塗装の飛び込み営業

 

さて、4度目の転職を成功させた僕は、25歳。

25歳で4回転職…笑

一番避けてきた、営業職に就いた僕。

 

まずは研修で、

結構長いテンプレートの文を丸暗記させられました。

 

「こんにちは。〇〇会社のざかしと申します。工事のあいさつとお願いでまわっております。玄関先までお願いできますか?」

 

それ以外にも住宅に関しての基礎知識がずらずらと…。

 

普通は、3日で覚えて、

4日目で実際に個人宅訪問(ピンポンしにいきますw)

なんですが、
別に頭良いわけでも暗記力があるわけでもないのに、

どちらかというと頭悪い方なんですが、

一日で覚えました。

 

「ざかし、やるじゃん!」

 

と会社の上司の評価も高くて、

僕は意気揚々とはじめて実際のお宅にピンポンして

営業しに行きました。

 

しかし、まあ契約なんて、

とれませんね。

 

「訪問販売お断りしてるんで」

 

「大丈夫です」

 

と断られることもあれば

 

「なんだよ、この詐欺師!!!!」

 

と怒鳴られたこともありました。

 

 

この会社、月に1本も契約取れないと、

月収9万円なんです。

一本でもとれると月収30万円ほどいくのですが。

 

僕はこの会社に7か月務めて、2本しかとれませんでした。

しゃべりもへたくそだし…

 

ただひとつ誇れるのは、

毎日誰よりもピンポン押しました。

 

周りがさぼっているときに、

ひたすらがむしゃらに件数をこなしました。

 

その結果ダメだったから

はじめて前向きに退職しました。笑

 

 

こうして僕は、26歳になろうとしているときに、

借金100万円ほど抱えたまま、

また無職に…

 

それからは、コンビニでの棚卸のバイトをしましたが、

コンビニでの仕事はとてもつまらなく…

そのあとは、配送の仕事をしましたが、

中学の時に痛めた腰が痛くなり

やめました。

 

彼女は、僕の借金返済が終わったら結婚したいと言っている。

いや、僕も借金返済し終わったら

結婚をしたいと思っていた。

 

もう僕が待たせてしまっている。

 

情けなくて、彼女の前で泣いたこともあった。

福島の原発の除染作業の仕事で短期間で100万稼いで、

ぱぱっと返済も考えて、

 

「いよいよ明日福島へ!」

 

という段取りまで組んだんですが、

前日に親に本気で止められました。

 

 

「あんた一身体じゃないんだよ?除染作業員って危険が伴うんじゃないの?」

と…。

 

僕は、完全ニートの状態になってしまいました。

失業給付金をもらって生活と借金返済をしていました。

 

そして、僕は県庁に行って、臨時公務員に応募しました。

 

県庁「3月に連絡いたします」

 

と言われたのは、2015年の12月。

 

失業給付金がもらえるのも、

3月まで。

 

これで臨時公務員の仕事に就けなかったら、

借金の返済もできないし、

無職だし

結婚もまた遅らせてしまうし…

 

もう僕はうつ病一歩手前でした。

 

 

でも、神様はなんか、

僕なんかにチャンスをくれました。

 

公立高校への就職が決まったのです。

 

2016年4月から高校の事務として働くことになったんです。

2018年現在もそこで働いています。

 

部活動も見ているし、

借金も返済できたし、

 

去年の10月には無事に結婚をすることができました。

借金返済に苦しくても、

婚約指輪のお金は頑張って貯めてました。

 

プロポーズもばっりち決めました。

 

 

僕は今…

 

 

いまだにね、

いろいろ悩むことがあります。

震える夜もあります

涙することもあります

胃がきゅって痛むこともあるし

人間関係が悪くて

神経をけずる場面もあります。

 

友だちとうまくやれない時もあるし

へこむとき、怒られる時、

悲しいとき…

恥ずかしいとき…

 

いっぱい嫌なことはあります。

 

 

でも、僕は、両親や、兄弟、

中学の時助けてくれた友だちや、

新潟に行くとき、

送り出してくれた高校の友だち、

バイトで出会ったおじさんおばさん

新潟から逃げ出してきたときに出会った上原さん

クソみたいな扱いをされて

めちゃくちゃムカついたけど

今では恩師と言える高校時代の先生

今の学校の校長先生や事務の人たち

今の奥さん…

 

 

もうね、本当に、今までの辛いこととか

逃げ出してきたダサいこととか、

ひとつでも欠けてたら、

 

 

今の僕はいないんですよ。

 

 

もし、僕が今の僕を否定したら

 

今まで出会った人たちのことも

僕は否定することになります。

 

 

僕が、腰の怪我をしなかったら、

あの小、中の仲間のあたたかさを知ることができなかった。

 

新潟に行かなかったら

両親のありがたみもわからなかったし

 

逃げ出さなかったら

出会わなかった人もいる。

 

 

人生って、間違いってないんだなぁ。

 

 

めちゃくちゃ長くなってしまったけど。

僕は、これからは、

言葉や態度で人のことを楽しませたり

あたたかい気持ちにさせたり

助けてあげたりしたい。

 

 

こういう考えで、

今の僕は、

今ここに立っています。

 

やりたいこととか見つけ出すために

毎日一生懸命、

試行錯誤して、

 

Twitterやブログで、

自分自身のことを発信しています。

 

そうしたことで、

出会えた人たちもいます。

 

こんな僕に本をくれたり、

レターポットであたたかい言葉をくれたり…

 

 

だから、LINEスナックというあたたかくて人を元気にしたり癒したりできるようなコミュニティを作りました。

 

 

本当に最後になりますが。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

 

 

これからもよろしくお願いいたします!!!